2008年10月29日

音楽家は語る−指揮者の言葉から フルトヴェングラー、クレンペラー、チェリビダッケ、アーノンクールほか

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本日は、音楽家は語る の続きと参ります。

いつもご覧いただいている皆様には蛇足ながら、音楽家は語る とは、クラシックおすすめ名曲・名盤情報&ショップサイト Look4Wieck.comのTop頁に掲げているコーナー。作曲家・演奏家を問わず、音楽家の著作から、抜いて来た言葉をランダムに表示しております。出版されている書籍が、作曲家、指揮者、ピアニストのものが多く、引用もそれらからとなることが多くなってしまいますが、いずれにせよ、意外な人物への評価、作品鑑賞へのヒント、ユーモラスな逸話などなど、楽しんでいただければ幸いです。

私の周囲のクラシック好きは、意外に音楽家の本を読まないのですが、音楽関連書は初版限りで在庫切れになることが多いので、世間的にもそうなのかな・・・と。音楽家は語る、「ちょっと本を読もうかな?」という機会になれば、幸いです。

今現在、ランダムだとどんな言葉を載せているか見つけ難いので、このブログで載せた言葉をすべて紹介しているところ。時々、思い返したように、やっております。過去の類似記事については、このサイトの記事一覧 音楽家は語る(クラシック作曲家&演奏家の名言集)からご覧ください。

前置きが長くなりましたが、本日は指揮者の言葉です。


S.ピーンドル&T.オットー編 『私が独裁者?モーツァルトこそ!―チェリビダッケ音楽語録』の商品写真フルトヴェングラーを回想して
彼にこう訊ねたことがある、先生、ここのテンポはどうすればよいのでしょう。答えは、『そうだね、それがどんなひびきを出すかによるね』。まさに啓示だった。テンポとはメトロノームで計れるような物理的なものではない。

レオポルド・ストコフスキーを評して
色彩の王者

クララ・ハスキルを評して
機智に富み、魅力的で、感受性ゆたかだ。ユーモアに満ち、生きるよろこびに横溢している

真の音楽とは、
あなたの聴く楽の音が、あなたのなかになにかを呼び覚ますものでなければ、それっきりのものでしかない

S.ピーンドル&T.オットー編 『私が独裁者?モーツァルトこそ!―チェリビダッケ音楽語録』 から p.38,51,71&116

この書籍、引用しようとすると、よい言葉も、いかにもチェリビダッケ!という言葉もたくさんあって困るほど。一冊から取りすぎても、、、と、思って今現在は、四つに絞りました。薄いけれども楽しい書物で、ご興味がございましたら、

に詳しくご紹介しておりますので、ぜひどうぞ。

次は、オットー・クレンペラーの言葉。

ピーター・ヘイワース著 『クレンペラーとの対話』の商品写真マーラーを回想して - 第2交響曲のリハーサル
私はマーラーに近づいて、オーケストラに満足か聴いてみました。「駄目駄目、おぞましいね。煩さすぎる。」そう答えるので、私は、スコアにフォルティッシモとある旨、指摘しました。
マーラーの答えはこうです。「もちろん。しかし、遥か向こうでだよ。」

ピーター・ヘイワース著 『クレンペラーとの対話』 から

 

シュテファン・ シュトンポア編 『クレンペラー 指揮者の本懐』の商品写真マーラーを回想して
(マーラーは)急に私に聞いてきた。「あなたは作曲しますね。そうでしょう?」自分の習作を作曲として認めていなかった私はそれを否定すると、「いや、いや」と彼は笑いながら言った。
「作曲をしてますよ。見かけでわかるんです!」

マーラー、シェーンベルクを擁護する。
1907年、シェーンベルクの《室内交響曲》作品9が初演されたとき、マーラーもそれを聴いていたが、演奏が終わると凄まじい騒ぎが始まった。拍手、嘲笑、叫び。拍手をしていたマーラーの隣の男は、力のかぎり野次を飛ばしていた。
そこで、マーラーは彼を制止して言った。「私が拍手をしているのに、どうして野次を飛ばそうとするんです。」しかし、男の答えは、「あんたのくだらない交響曲の時も俺は野次ったよ!」マーラーも負けてはいない。「くだらないのはあんたもだ!」警察が止めに入らなかったら、二人は殴り合いになっていただろう。

1937年、自ら指揮するシベリウス第4交響曲演奏前のスピーチ
この第四交響曲は、およそ二十五年前に初演され、とくにその和声の点から革命的な作品と考えられていました。その後、二十五年間の怒涛のような音楽の発展を経た今日では、シベリウスの和声が持つある種の鋭さにはもはや驚きません。しかし、この曲が持つ異常な雰囲気と内面性は、今でも初演時の1912年と同じく刺激的です。
これは大衆のための作品でなく、華々しい成功とは無縁の、一人の人間の孤独な歌です。彼は皆さんの心に触れたがっていますが、決して媚びたりしません。
シベリウスの交響曲は決して長すぎはしません。しかし、この三十分は根源的で妥協のない作曲家の言葉で満たされています。

シュテファン・ シュトンポア編 『クレンペラー 指揮者の本懐』 から p.121&191

マーラー関連が多くなりましたが、身近に居たクレンペラーならでは報告。最後のスピーチは、シベリウスのこの曲を喚起するよい言葉かと思います。このクレンペラー関連の二冊は、重複する部分も多いですが、それぞれ面白い内容で、クレンペラーの音楽感は勿論、他の指揮者や演奏者に関する感想もあり、同時代の人物だけでなく、それこそブレーズへの言及などもわずかながらあって、中々面白いものでした。

次は、短いものですが、、、


ヘレナ・マテオプーロス著 『マエストロ〈第2巻〉』  の商品写真名指揮クラウス・テンシュテットの趣味の一つは天体観測だった
「自分がどれだけちっぽけで取るに足らない存在であるかを知るのはいいことです。」

ヘレナ・マテオプーロス著 『マエストロ〈第2巻〉』 から p.281

 

近衛秀麿著 『オーケストラを聞く人へ』の商品写真

どうしたら音楽を愛することができるようになるのか?
音楽に親しむことです。ただそれだけです。ことにオーケストラ音楽に親しみを感ずるようになるためには、なるべく多く生の「オーケストラ」の演奏に接する機会をもつよりほかに方法はありません。

近衛秀麿著 『オーケストラを聞く人へ』から p.14

テンシュテットの言葉はなんだか人柄を表しているような気が・・・。

近衛秀麿の著作は、「知識はともかく、素直にちゃんと聴いてみよう」というもの。こういうブログをやっていると、ろくに聴けもせずに、知ったようなことばかり書くので、時々、見返して恥じ入っております。管弦楽曲の名曲案内にもなっており、楽器ごとに、さまざま曲の中での工夫された使用例を楽譜を見せながら簡単に紹介。曲を取り上げる範囲はほぼ古典派〜ロマン派ですが、「どの曲を聴こうかな、、、」と迷った場合、この一冊を手元にいろいろ聴いてみても良いかもしれません。

ニコラウス・アーノンクール著 『古楽とは何か - 言語としての音楽』の商品写真美しいだけが音楽なのか?
美と醜は姉妹関係にあり、一方は他方にとって必要不可欠なものであることは、かつては当然のことであった。昔の音楽理解においては、醜いものや荒削りなものは重要な位置を占めてたのだが ― われわれの音楽理解にそうしたことはほとんどない。われわれは芸術作品を、もはや全体として、多層的な切り口において理解しようとはしない。われわれにとって価値があるのは、もはやただ一つ、完全無欠の美しさというひとつの構成要素にすぎないのだ。
われわれはもはや音楽を通じて人が変わることは望まない。ひたすら美しい響きのなかに耽溺したいだけなのである。。

自筆譜がもの語ること
すべての音楽家にとって、楽譜を書くということは、想像力のなかに息づいている響きを視覚的に表現することを意味する。だから、感情的な内容が書き方によっても伝達されるのは自明である。扇情的なアレグロのパッセージや胸を締めつけるような和音を、かわいらしくきれいな音符で記すなどまったく不可能だ。
われわれにとって演奏する作品の自筆譜を ― 可能なかぎり自筆譜を、そうでなければ最低でも程度のよいファクシミリを ― 見るのはこの上なく重要である。

ニコラウス・アーノンクール著 『古楽とは何か - 言語としての音楽』から p.146&284

いわゆる古楽ムーブメントが起きて、一世代は経っているのに未だにアーノンクールばかり持ち上げてもとは思いますが、、、聴衆のお金は限られていて、あれもこれも手を出せないので、アーノンクール・ブランドの信仰となるのは致し方ないかなと感じます。普通にぼーっとしていると、こういう話はやはり耳に入らないし、そこまでいろいろ調べろと言われても、それも過度な要求かなと、、、

いずれにせよ、未だ19C的と言うか、ロマン派的なと言うか、そんな感性べったりな小生には、上の書物は大変刺激的でした。なんだかスカスカと思って避けていた古楽を、まじめに聞いてみようと思った一冊。日頃の名曲・名盤のご紹介も、アーノンクールに限らず、今後、この方面のものをいろいろと増やしていければ良いなと考えております。


フルトヴェングラー著 『音楽ノート』の商品写真鋭いアウフタクトによってのみ指揮することを誤りとして
それは運動を一点に固定することであり、この固定は音楽の生き生きとした流れに表現の可能性の低下をもたらす。点はどこまでも点にとどまる。力点において指揮されるオーケストラが、力点を演奏するようになるのは自明の理である。

偉大な音楽とは、
真の創造者はひたすら直接に、もっぱら生きた人間に向かって語りかける。これがバッハの音楽であり、モーツァルト、ベートーヴェン、そして現在にいたるすべての偉大な作曲家たちの音楽であったのだ。

フルトヴェングラー著 『音楽ノート』から p.121&186

フルトヴェングラー著 『音と言葉』の商品写真

聴衆とベートーヴェンの音楽との関係
ベートーヴェンにとって、聴衆とは完全な資格を具えた相手役である。彼は聴衆を厳粛に受け止めるだけでなく、キリスト教的な意味で、自己の如く、愛さねばならぬ隣人だとみなす。

フルトヴェングラー著 『音と言葉』から p.263

最後は、フルトヴェングラー。最後の二つの言葉は、大袈裟にも聞こえますが、やっぱり、「いいなっ」と思う根幹はここかなと思います。

私も半知半壊のまま、なんとなく、いい言葉かも、、、と挙げておりますが、如何でしたか?

書籍は大きな図書館にはあると思います。開いた頁の価格が高い場合、同じ書名で検索を掛けると、大概安価なものが出てきますので、試してみてください。

では!

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posted by sergejO at 15:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 名著ご案内!
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