前回、この月曜日に衛星放送BS2で放送されたイタリアの往年の指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toskanini 1867-1957)のドキュメントについて、簡単にご紹介いたしましたが、その流れでトスカニーニについて語っている同時代の指揮者・演奏家の批評を幾つかご紹介しようと思います。
三人の人物の著作を取り上げますが、指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ウィーン・フィルで長らく楽団長を務めたオットー・シュトラッサー、そして、再び指揮者からオットー・クレンペラー。それぞれ、さまざま温度差はありますが、コンサート用作品に関してはその解釈に疑問はあるけれど、オペラにはもっと長所を感じ、何はともあれ、音色や響きには感心を示していたのが面白いことでした。
こういった領域は、きちっと楽譜を開いて・・・開いても「録音はこの音がはずれている」と間違い探しだけでは詮無い事で、楽譜が一体どういう類いのどんな校訂のものか理解して、その上で、きちっと楽譜が音楽的に読めていないと、上の三人の批評も手前勝手に(文学的な)言葉で判断してしまい兼ねないものでしょう。音楽的に読むといっても、これまたややこしい世界です。
弊ブログには荷が重いですし、そこまでは足を踏み入れたくない領域。
しかし、トスカニーニもプロとアンチそれぞれが強い意見を主張しておりますし、どちらでもない方は、一体なんなんだろうとなんだか迷うことがあるのでは?
細かい内容はところどころ判らずとも、少なくともプロの音楽家の中にも全否定・全肯定とはっきりさせずに、部分的に善し悪しを判断していた方が居たのだな、、、などと知っておくのは良い事かも知れません。そう思っておけば、自分と違う意見を見つけても、そうカッカとなることもないでしょう。
音楽家が音楽的に話をしているのを読んで、「ここは自分は判らないなぁ」と気づかされれば、(文学的)言葉だけを使った、「ベートーヴェンが判っている/判ってない」「作品○○の精神・本質を理解している/していない」などの議論からは身を引いて、せめて自分の感じた音の印象に忠実に・・・といった程度に収まるものかと。呑んで音楽好きな仲間と話でもしていると、判らないなりにも虎の威を借りて「誰がこういっている」なんて引用したいこともままあるのですが、その時もちょっとは控えめになれるかと思います。
勿論、音楽の素養がある方なら、それぞれの言葉からいろいろお分かりになることがあるのでしょう。
フルトヴェングラーによるトスカニーニ評:『フルトヴェングラーの手記』
本日は、指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラーによる評価を簡単にご紹介致します。W.フルトヴェングラー著『フルトヴェングラーの手記』のP.70からの小論文『ドイツにおけるトスカニーニ』にあります。もうお読みになった方も多いのでは?
1930年の論文で、すでにこの時、フルトヴェングラーは44歳でベルリンフィルの主席指揮者になって8年目、
指揮者としてのトスカニーニは、オーケストラと指揮者の国ドイツにおいて、かつて他の外国芸術家にはほとんど例がないほどの成功を収めた。この成功の根拠を探り、その純正さ、影響、意義を見当することは無駄ではない。
と文章ははじまります。
私自身はトスカニーニをミラノとチューリヒ、ニューヨークならびにベルリンで聞いた事があり、しかも一、二度に限ったことではなく、数多くの試演にも立ち会っている。
と書いて居りますから、以前から関心があったことが伺えます。取り上げる三人の中では、多分、読む前から想像がつくように、もっとも手厳しい意見。トスカニーニ・ファンの方にも、フルトヴェングラーだったらそう言いそうだ・・・とお腹立て無からんことを!
1930年、トスカニーニはニューヨーク・フィルを連れて欧州に公演に行って居りますから、その時の、できごとでしょうか?
ハイドンの交響曲第101番 ニ長調 《時計》の演奏を聴いて、第一楽章ですが
(トゥッティが)対立物を真に音楽的・心理学的に結びつけようとする僅かな試みすらも彼によってなされたわけでないことが歴然とした
と。ベートーヴェンの交響曲《英雄》では、
ベートーヴェンの音楽の本来の内容を決定するすべてのもの、すなわち有機的なものとか、一つのものが別のものに移行する経過とかは、トスカニーニにとって存在しない。(中略)
だがわれわれは、その際、彼がかなりの年齢にいたるまでイタリアのオペラ指揮者にほかならなかったこと、絶えずイタリア・オペラ音楽の諸形式の枠内で思考し、彼にとっては一方ではトゥッテイが、他方では純粋にホモフォニー的なアリアが音楽の基本概念であったということを思い起こす。
この他、記述は詳細に及び、曲のどの部分か、時にはどの楽器の音かまで確認できる書き方をしておりますので、詳細は本書でご確認くださることを。トスカニーニ評を書きながら、フルトヴェングラー自らの音楽観の表出でもあって、観察結果は観察者に影響される・・・と思ったりも致します。この書籍、p.379と厚いものですが、判らないなりに読んでもフルトヴェングラーそして音楽そのものを考えさせられる小論・断章ばかりですから、ご興味あればぜひ。
さて、そんなフルトヴェングラーが疑問を感じてばかりかと言うと、上述のハイドンの第一楽章の総評ですが、
いずれにせよ、トゥッティよりも本質的に印象に残っていたものが、繊細なカンタービレの部分であった。この部分は、ややテンポを緩め、それによって惹起されたいささか意識的な感じを与える印象にもかかわらず、トスカニーニのオーケストラの響きの主要特質、すなわちすべてのカンタービレの部分で聞かれる漂うような優美さと軽快さを実に見事に響かせていた。
と賞賛。クライマックスのトスカニーニ一流の壮大さにも留保付きで感心した旨の記述がありましたが、一番フルトヴェングラーに訴えたのは、この繊細なカンタービレの響きであったようです。
*****
トスカニーニとフルトヴェングラーの二人の指揮者と長く仕事を共にしたウィーン・フィルの楽団長オットー・シュトラッサー。その自著『栄光のウィーン・フィル―前楽団長が綴る半世紀の歴史』の中には、二人を並列している記述が幾度かでてきます。
トスカニーニは正確さ、音色の美しさに気を配り、フルトヴェングラーは表現力、豊富な力の迸りに心がけ、このようにして、互いに対立しながらしかも互いに相補うこの二人の巨匠の影響力は私たちの上に著しい効果を及ぼし、双方の優れた特徴が一つになり、目に見えて、私たちに最高のフォルムを現出してくれた。
演奏者側から見ても、対照的な二人であったようです。 この部分だけ見ても、上のフルトヴェングラーのトスカニーニ評とほとんど同じ見方をしていたと伺えます。
オットー・シュトラッサーは、上の著書でトスカニーニについてはわざわざ一章を割いて記述。これが音楽的な話は勿論、怒りっぽいイタリア人をなだめる、呑気なウィーンっ子というステレオタイプにうまくはまる(はめた!?)内輪話が多くて、ゆる〜い私は時には声を出して笑いながら、両者に好感を抱いた覚えがあります。
長くなりましたので、そのご紹介は次回に!
関連のおすすめ:
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