引き続き、往年の名指揮者トスカニーニについての同時代の指揮者・演奏家の言葉をご紹介しながら、「プロの方もこういう見方をするのか・・・」、「いろいろなものの見方があるなぁ・・・」と体感する企画です。
本日は指揮者オットー・クレンペラー(Otto Klemperer 1885-1973)がトスカニーニをどう判断したか。それは邦訳で、ピーターヘイワース編『クレンペラーとの対話』にありますが、リンク先ご覧の通り、現時点では、中古のみにしてその値付けが・・・。何十年と神田の古書街をあるいた小生としては、はなはだ疑問な価格です。
英語版のPeter Heyworth ed., Conversations with Klempererもあって、これが存外読み易いので、お手に取られる際はこちらもご一考を。小生も英語版しか読んで居らず、ページ数などもすべて英語版に従って居ります。
指揮者クレンペラによるトスカニーニ評:『クレンペラーとの対話』
最初にトスカニーニの話が出てくるのは、指揮者兼作曲家のグスタフ・マーラーがトスカニーニを聞いた感想の話。アルマ・マーラーから伝え聞いた由。
マーラーがニューヨークはメトロポリタン歌劇場(MET)にデビューしたのは、1908年。演目はワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》でした。そして、すぐ後に、METに招聘されたトスカニーニも《トリスタン》を公演。通常、同じ演目は時期が近いうちは取り上げないのですが、《トリスタン》でなければ振らないという条件がトスカニーニから出されていたそうです。
そのトスカニーニの公演を聞いたマーラーの感想が、
これは僕らの《トリスタン》じゃない。でも、この指揮者は自分がなにをしたいのかよく判っているね。
だったと(前掲書 p.32)。
この書籍、1969年当時、スイスはチューリヒに居を構えていた最晩年のクレンペラーにインタビューしたもので、インタビューの言葉は、英語とドイツ語双方でなされたそうです。自伝的な事柄から音楽観、作曲家はもちろん、同時期の指揮者・演奏家の感想も語って貰うという主旨で、この時代の大きなfigureだったトスカニーニも、幾度も言及されて居ります。その中でも一番まとまっていて、しかも、一番ユニークと思われる見方は、19世紀末から20世紀にかけてのドイツの大指揮者 アルトゥール・二キシュ Arthur Nikischと同系列の指揮者として、論じている部分かと思います。
ニキシュは、ハンス・フォン・ビューローの後にベルリン・フィルを率い、後、その後任となるフルトヴェングラーも若き日にリハーサルや公演に通って、多くを学んだという人物。
引用は拙訳にて、各種不備はご容赦を(前掲書 p.115〜116。)
指揮者に関して、わたしが強く考えている区別は、自分で作曲もする指揮者と、指揮のみをする指揮者というものです。そして、ニキシュは作曲をしない指揮者の典型でした。彼は大変なヴィルトゥオーゾでしたよ。R.シュトラウスも高く評価しておりました。しかし、私見では、ニキシュは音楽家であるよりも、良い指揮者であったのです。シューマンの交響曲を素晴らしく指揮しました、それと、ワーグナーに、R.シュトラウス。格別に見事だったのは、《タンホイザー》の序曲。そして、なによりも、チャイコフスキーの悲愴交響曲、圧巻でした。音響の非常な美しさ。コントロールされていて、それでいて、決して情熱を失う事がない。いやはや、ニキシュは素晴らしいものでしたよ。(略)
マーラーと比較して、ニキシュの音楽へのアプローチは非常に違ったものでした。ニキシュは、「私が指揮ができるのは、音楽を心で感じた時だけだ」と常々いっておりました。その通りだったと思います。彼の音楽に対する姿勢は大変ロマンティックでした。お分かりでしょう?R.シュトラウスやマーラーを一方において、もう一方にニキシュを置いた時のその違い、それは、シュトラウスやマーラーは作曲家であり、ニキシュはただ指揮者であるということです。甚だ優れた指揮者でしたが。
ロマンテックという言葉も、さまざまに使われるので、私などには一体なんなのか・・・音楽だけでも随分ロマンティックと言われるものの印象が異なってなにがなんだかです。
元々は文学から来た言葉だしと、ノヴァーリスやホフマンを読んだり、理論系でシュレーゲル『ロマン派文学論』やジャン・パウルの『美学入門』を読んだものですが、読めば読んだでまたややこしく、幻想的な想像力の飛翔に、皮肉な態度があるとか、ないとか、、、取りあえずは、情感に溢れ・こちらに様々なイメージを膨らませるとか、時には感傷的ということも視野に入れて、、、などとそんなことを思っておけば良いかと思います。
上の発言で大事なのは、自ら非感傷派と位置づけたR.シュトラウスと、聴くものも自らも耽溺したいわれるマーラーを一緒のグループとして、ニキシュと対比している事。この間にあるものが、作曲をしているものなら判る音楽へのあるアプローチであること。後で、引用する部分を読んでも、作曲するかしないのかによる差は、ロマンティックか否かとは違う差であることは確かです。
ここで、質問者ヘイワースが話を「トスカニーニはいかがでしたか?」と話題を振ります。
並外れた音響感覚と記憶力をもった素晴らしい指揮者でしたよ。根っこのところでは、言葉の最上の意味でナイーヴな。彼もまた作曲をしない指揮者でした。彼は自分の望む所を正確にしり、それを如何に実現させるかしっていました。彼が望む所にいつも、納得したわけではありませんが、大変高く評価します。幾つものリハーサルに行きましたが、あの格別な音を彼がいかにものにしたかは不思議なこと(miracle)でした。彼の指揮の身振りと関係があるとは思えなかったのです。
クレンペラーはトスカニーニをニキシュと同じ系列にいれます。この「作曲をするか/しないか」に由来するとクレンペラーが感じている差が、作曲をしない聞き手のわれわれにも判るものなのか・・・
指揮者クレンペラーによるトスカニーニのおすすめ
クレンペラーはこの後、あれは良い、これは今ひとつと、トスカニーニの公演を思い出します(クレンペラーが聴いたものとは異なりますが、各種録音が出ている曲はリンクしておきました)。
ハイドンの時計交響曲、良かったですね。その頃、レスピーギのなにかも指揮しました − 確か《ローマの松》という名前だったような。酷い作品だと思うのですが、トスカニーニ指揮の演奏は目を見張るものでした。それに、彼のワーグナーは、非常に、非常に良かった。ミラノで《マイスタージンガー》を聴きましたが、それは素晴らしいものでした。(略)
ベートーヴェンの交響曲第1番は素晴らしかった−クリアーで非ロマンティックでした。しかし、例えば、第7番のトリオは大変早過ぎた。私が知る限り、これは古いオーストリアの巡礼者の歌、アヴェ・マリアをもとにしています。トスカニーニはこれを知らなかったのでしょう。テンポを遅くとってはじめて意味をなします。スケルツォに対照的になるべきですから。
間に、暗譜の問題を挟んで、ヴェルディのオペラは手放しで賞賛。
1929年、彼はスカラ座の歌手とオーケストラをベルリンに率いて指揮をし、《イル・トロヴァトーレ》、《ファルスタッフ》そして《ランメルモールのルクレチア》は忘れる事のできない公演でしたよ。
序でながら、暗譜の問題ですが、クレンペラーは自分は使うし、なぜ暗譜をするのか判らないという立場。クレンペラーの世代には、そもそも暗譜の必要性が、不思議なこととも思いますが、これは最近でも、まだまだ必須とされていることなのでしょうか?
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さて、三回にわたって,ご紹介した同時代の指揮者・演奏家によるトスカニーニ評。その前の、トスカニーニのドキュメントもあわせて、過去に書いたものは以下の通りです。
- 《トスカニーニとの会話》と《トスカニーニのワーグナー》:2009年2月16日放送(DVD紹介あり)
- 第一回:ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの評価
- 第二回:ヴィーン・フィルの楽団長だったヴァイオリン奏者 オットー・シュトラッサーの評価
細部では指摘するポイントや取り上げる題材が異なるものの、音の響きをみな賞賛し、特にヴェルディとワーグナーのオペラを素晴らしいと思っていたところでは一致しておりました。細部で指摘する部分がまた面白かったりしますし、それぞれ、トスカニーニ以外の話題も豊富な読み応えのある書籍ですから、ぜひお手に取ってご覧になられることを!
結局のところ、感想は自分で素直に感じるしかない・・・伝記的な事実や世間の評価も考慮にいれるべき時もありましょうが、やはり、素直に自分で感じてみる、これが根幹だと思います。
わたしも当然録音でしかトスカニーニを聴かない世代ですが、この三回で取り上げた各々が感銘を受けた音の響きの素晴らしさは、今でもコンサート・ホールでの良い公演でしか体験できない響きだったのだろうな、少なくとも実演を聴いたら大変違う感想があったろうな、、、と想像致します。トスカニーニに限らずの話で、録音物で心底感銘を受けることが確かにありながら、やはり、録音物ではなかなか再現が難しい響きがあるということでしょう。(一言!オペラものに関しては、コンサートホール形式よりも、音は悪くても実況ものが良いと思います。)
では!













